解説

天明の浅間山大噴火

 

 

この古文書は江戸から佐渡の奉行所へ宛てた手紙である。

83日から4日にかけて、噴火による降灰()のため昼間にもかかわらず闇夜のようであった。人びとは爆発音による地響きや地鳴り、山頂付近の大火のような溶岩流失などをみて不安と恐怖におびえ、生きた心地がしなかったに違いない。加えて5日には利根川が大洪水となり、家や田畑を水没させ、同時に多数の死んだ人や馬が流されてきた。人々はどうしてこんなことになったのか理由もわからず、呆然と立ち尽くしていたであろう。

浅間山噴火による被害は(1)爆発に伴う地響きによる家の振動、崩壊など、(2)大量の降灰()が家を崩壊し、田畑の作物を埋没したこと、(3)泥水が吾妻川流域の村々を押し出し、多数に人や馬が流されたこと、(4)大洪水となった利根川は烏川と神奈川を逆流させ川口を塞ぎ、それらが4本の川となって流れ、田畑、家などを水没させたこと、などが詳細に記録されている。ただし、熱泥流による鎌原村の惨状については書かれていない。また、その時は利根川が突然大洪水となって流れ下った原因はわからなかった。

 

古文書の作者は高崎に在住の幕府の役人ではないか。高崎は噴火の風下にあり、大きな被害を受けた。3日間の噴火の様子、降灰()の影響などかなり詳しく記録されている。雷による地響きの被害は高崎にある家について書かれている。降灰()の厚さもはじめに高崎について記載し、次いで下方の本庄、深谷などとなっている。中仙道のそった村々の降灰()の厚さについても高崎から信州軽井沢の順に書かれている。

噴火による大被害は武州(埼玉)、上州(群馬)に見られた。熱泥流が洪水となって、吾妻川、利根川沿いの村々を襲った。烏川が利根川に合流する高崎から本庄、深川では被害が大きく、家や田畑が水没した。板倉伊勢守(安中城主)、松平右京(高崎城主)の御領地、御代官の伊勢崎御領が全滅してしまった。

 

高崎は中山道と三国街道の分岐点であり、交通の要所である。高崎が浅間山の噴火により多大な被害を受けた。道路が寸断されたことにより、物流の流れが止まり佐渡の金を運ぶことは出来なかったであろう。この古文書は佐渡の金を暫く運べなくなった理由を書き記したものではないか。

なお、持主の小林はこの古文書を書き写したものである。

 




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