天明3(1783)年7月

 

信州浅間山大焼により群馬、埼玉に砂が降り、泥が押し寄せ大変の事になった

 

頃は天明3(1783)8月2日の夜、小雨降る音がしてちょっとばかりの砂が降った(1坪に4升枡と報告されている)

 

8月3日は晴天であったが、その日の午後4時から山が鳴り出し、午後6時には大雨のような砂が降り出した。もの凄い雷鳴は五体に響き、鍋釜も割れんばかりであった。しかしながら雨は一粒も降らなかった。冷光は絶え間なく続き、夜中になっても砂は降り続いた。この夜の雷は60から70回ほど鳴り響いた。

 

84日は午前8時を過ぎても夜が明けずに、砂が降り続いた。午前11時になるとようやく空が明るくなったが、依然として雷鳴は続いていた。そして午後1時になると再び空が曇りはじめ、あたりすべてが黒い煙で覆われ、闇夜のようになった。そばにいる人も見ることが出来なく、夥しい数の雷鳴と小石混じりの砂が降り続き、あたかも月夜のような状態であった。そして午後5時、ようやく本来の昼の明るさとなったが、山は赤く映え大火のようであった。実際は降っていたのは小石ばかりであったが、人びとはひどく驚いて火が降っているようだと思った。雷鳴の数は先ほどの倍もあった。午後6時、浅間山の雷鳴が大地に響き、まるで大地震のようであった。浅間山から145里程(55から59km)離れている高崎でも家が動き、戸や障子が揺れる音がして今にも崩れ落ちそうであった。所々の家は傷つき、潰れた家は数え切れなかった。宮々や寺々では御祈祷の鉦や太鼓がなり、町人は各々自宅の庭に出て、百万遍を唱えた。どうしたらよいものかと非常に心細かった。此の夜の雷は今まで経験したことのない大きさで、130から140回位の雷鳴があった。

 

85日の朝は少し晴れていたが、午前8時になると空が曇り俄かに暗くなり始めた。雷が34つ鳴り、泥が大雨の如く降りだした。しかし半時ばかりで止みはじめ、晴れてきた。午後0時には砂は降り止んだ。この23日は昼の空は黒煙で覆われ朧月夜のようであった。

 

降った砂の厚さは高崎では1尺(30cm)あまり、それより下方の倉賀野、新町、本庄、深谷、熊谷、桶川までは89(24から27cm)から56(15から18cm)ほどであった。さらに下方に行くにつれて、薄くなり砂はなくなった。また高崎から板鼻、安中、松井田、坂本、碓氷峠、杓子町、信州を越えて軽井沢までの砂の厚さは156(45から48cm)から2342(6090126cm)ほどであった。特に軽井沢町は被害が大きく、潰れた家は52軒、焼けた家は20軒ばかり、痛んだ家は数知れなかった。高崎から坂本までは、うわさによると潰れた家は100軒ばかりという。武州(埼玉)、上州(群馬)両国では17、8里(67から71km)すべての里々に作物が見えなくて、大変な様子であった。特に板倉伊勢守様(安中城主)が大きな痛手をこうむった。御領地4万石には青い木は1本も無く、里山から草木まで皆枯れてしまった。松平右京佐様(高崎城主)の御領地も大方無くなってしまい、御代官領の伊勢崎御領も如何程の状態か今もってわからない。

 

次に、泥が押し流した村数は、吾妻川流域では浅間山中腹から杢御関所まで57ヶ村、杢御関所から利根川まで23ヶ村で、利根川に沿った村数は10ヶ村であった。泥の押し出しは浅間山腹の土砂が崩れ落ち、吾妻川へ押し出したことにより始まった。その際雷のような大きな音が何度も続き、次いで大量の煙が川より昇った。泥水は熱燗の酒のように熱かった。水下の下郷原村では高い橋が架かっていた千年橋 (丈夫橋と呼ばれた) が、6、7尺 (1.8から2.1m) 上から焼け落ちた。泥水が村々の草木、山、家を区別無く押し出したことは想像を絶することであった。さらに将棋倒しのようになって川下にあった杢御関所並びに上牧村、下牧村などをいっきに押し出した。同時に秋の木の葉が谷川に落ち流れるように多くの人や馬が流された。川の水はすべて泥であったが、熱湯のように熱く、無数の魚が焼け死んで岡へ揚がった。浅間山から出た火石が焼けた泥となって抜け出たようだが、どうしてこのような大量の泥が流れてきたのかわからない。泥水が利根川へ押し出して大洪水となった。所々に流れた場所を考えると利根川沿いでもかなりの村が押し出されたようだ。およそ67(18から21)くらいの高さで泥が押し出したようだとうわさされた。これらの泥には火石が混じり、烏川と神奈川(神流川)を逆流させ川口を塞いだため、両川が一つになって新町浦を横切り本庄、深谷のほうへ4本の川となって流れ、田畑、民家の区別が無く押出した。これらの田畑の損失は如何程であるかわからない。里の人は逃げ出し、本庄、新町あたりは市のように集まった。この火石は所々の川で焼け燃えているが、冷たい雨が降ると黒煙がでる不思議な石であった。押し流された村数は93ヶ村、道のりは長さ234(90から94km)といわれる。死んだ人や馬の数や流された家の数はいまだよくわからない。

 

上州、武州は大変なことになりましたが、詳細なことは不明ですと申し上げます。総じて、筆舌に尽くし難い状況で、一方ならぬ大変なことであります。古今稀で珍しいことで、前代未聞のなことであります。なお東国の下野(栃木)、常陸(茨城)、房州(千葉)、上総(千葉)辺りまで砂が降ったと聞いているが、詳しいことはよくわかりません。

 

以上の文は、江戸表から佐渡金山の御奉行所への手紙であります。佐渡の国の小木にたまたまいて写したという。この書を借りて写し置きました。




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